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2017.08.28 (Mon)

歴史上の人物から学ぶビジネスの神髄(第1回)

武田信玄から学ぶ部下の人心掌握術

posted by 山下 正之助

 戦国時代の武将である武田信玄は、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」という名言で知られています。その名言には、ビジネスパーソンにとって指導者としての姿勢や人材活用で参考となるメソッドが含まれています。

 

武田信玄は「会議」でクーデターを決定した!?

 武田信玄は、1521年に甲斐源氏の流れをくむ武田家の嫡男として府中(現在の山梨県甲府市)に生まれました。信玄という名は仏門へ出家した後のもので、それ以前は晴信と名乗っています。

 彼の父である信虎は甲斐の守護(室町幕府の地方行政官)であり、合戦上手な暴れん坊として名を知られていました。信虎は、信玄が誕生した翌年に甲斐国の統一に成功します。信虎は合戦上手ではあったものの、人の意見を聞き入れない君主で、家臣との間に溝が生まれていました。

 それは実の息子である信玄に対しても同様で、信虎と信玄は衝突することが多かったようです。そのため信虎は、信玄の弟である信繁を次代の当主に据えるべく、信玄の追放を企てます。その計画を察知した信玄はまだ21歳でしたが、父に不満を抱いていた板垣信方、甘利虎恭、飯富虎昌ら武田家の重臣を味方につけてクーデターを起こし、逆に父を駿河の国(静岡県中部)へ追放します。

 このようなかたちで家督を継ぐことになった信玄ですが、弟である信繁とは仲が良く、家臣からも慕われる人柄だったそうです。信虎と信玄で周囲の対応が違った理由は、人の意見を聞くという姿勢でした。

独善だった戦国大名で異端だった信玄の人材活用術

 信玄は定期的に家臣を集めて行政や軍事などの国政に関する会議を開催していました。信玄が「合議」と呼んだこの会議は、家臣から国政に関する意見を集め、最後に信玄がそれらをとりまとめるという武田家の意思決定機関だったのです。

 戦国大名が意思を決定する際は、少数の側近の意見を聞く程度で、1人で行うことが常識でした。戦国時代の常識からすると、信玄の合議制は異端でした。父・信虎の追放も家臣との合議によって決定したといわれています。21歳であった信玄がクーデターを成功させるには、家臣の協力が不可欠であり、その成功から意見を聞くことの重要性を実感したのかもしれません。

 信玄は治世や軍事など、さまざまなことを合議によって決めました。それによって成功や勝利を収めた際、発案した家臣には報酬を与えたそうです。また失敗した場合でも、発案した家臣を責めることはなく、発言のチャンスを与え続けました。このような信玄の対応に家臣は信頼を寄せ、より力を尽くそうという団結力の高い家臣団を形成することになります。その後、武田信玄は領土の拡大に成功し、有力な戦国大名として名を残すことになったのです。

名言に隠された信玄の人材活用術と人身把握術

 このように信玄は、合議制によって国政を行なってきました。そこで得た経験を「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」という有名な言葉で表しています。

 この前半部分にある「人は城、人は石垣、人は堀」は、戦に勝つために必要なのは頑丈な城ではなく人材であるという明確な信念を持ち、どうしたら部下がやる気を出すのか、そして彼らのやる気を活用できるかを常に考えていた信玄の人材活用術の心得を表したものです。

 現在でも根強い人気がある武田信玄について解説してきました。家臣全員が納得できる意思決定システムである「合議制」や、部下の話をよく聞く姿勢、部下のモチベーションを高める手法など、信玄の「ビジネス術」は、現在でも役立つ教訓といえます。

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山下 正之助

山下 正之助

国公立の美大卒業後、大手広告代理店などでクリエイターとして勤務。現在はフリーライターとして活動中。アートに関するキュレーターコラム、ビジネスコラムなど執筆多数。

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